作者経歴
作者 柿 本 胤 二
KAKIMOTO TANEJI
■1920年 大正9年 12月16日
柿本胤一、ハツの次男として誕生
■1926年 大正15年
北海道岩見沢市立尋常小学校入学
■1936年 昭和11年
横浜市立横浜商業専門学校(Y専)入学
■1941年 昭和16年
徴兵検査 第一乙種合格
■1942年 昭和17年
2月 樺太山砲兵連隊(北部43部隊)入隊
上敷香(かみしすか)=当時日本最北端駅
5月 陸軍野戦砲兵学校入学(四街道)
10月 卒業、見習士官将校勤務 樺太山砲兵連隊帰隊
12月 野砲第7連隊に転属 (旭川)
■1943年 昭和18年
2月 第24師団野砲第42連隊第795部隊に転属(満州西東安)
12月 少尉任官、現役満期即日召集、予備役
■1944年 昭和19年
3月 1ヶ大隊のみ釜山出航、南方に向かう原隊は後に沖縄にて玉砕
途中船団3隻中2隻轟沈 我が乗船にも魚雷当るも不発
敵潜に追われて苦しい40日余の末上陸
4月 南洋諸島カロリン諸島メレヨン島上陸(日本の委任統治領)
弾丸、食料等揚陸後、猛烈なる爆撃により全て炎上 苦難始まる
補給無く飢餓生活始まる
発狂、自殺、窃盗、銃殺、なんでもありの 地獄を見た
小生の小隊26名中、生還した者3名
他は栄養失調(餓死)にて死亡
■1945年 昭和20年
8月1日 中尉昇進(8月1日付と思っているが8.20かもしれない)
9月1日 後から通知が来て正八位→従7位
9月25日 引揚病院船にて別府港に帰還
陸軍病院にて検査の上召集解除
即日帰郷の途につき数日かけて岩見沢に帰郷を果たす
「故郷に帰る途中、横浜を横目で見ながら岩見沢に帰りました。途中二か所から電報を打ったのですが、そのうち一通が直前に自宅に届き、急いで迎えに出てきたお袋と無事涙の生還となりました。」