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館長あいさつ

​美術館について

柿本胤二には3人の子どもがいて、長男、次男、そして第3子で長女の弥生がいました。

館長は弥生の夫で、長男、次男とも年齢が近く、ほぼ同年齢です。自動車販売会社を経営し、メレヨン島戦友会の世話人をつとめ、画業にも余念がない義父胤二を間近に接する機会を得ておりました。

 

描いた絵画は相当数に昇り、娘婿である私の役割ではありませんが、作品を展覧する美術館を建設できないものかと思案することがしばしばありました。おそらく義父は私以上に美術館建設を何度となく、構想したにちがいありません。

 

2020年、コロナウイルスの世界的流行を受け、人の移動が制限されてしまう時節がやってきました。それならば、インターネット上に美術館を建設してみるアイデアを思いつきました。義母にアイデアを伝えると、長男・純、次男・秀も賛意を表明してくれました。画家でもある秀二がウェブデザインの技量を発揮し、アイデアを形あるものにして、できあがったのが、このデジタル美術館です。

 

長女の弥生は、惜しむらく、2018年10月に病没し、美術館設立に関与することができませんでした。

画業について

倦むことなく、研鑽につとめ、個展開催、画集出版、絵葉書印刷を継続していたため、交際範囲内では画家として知られていました。2000年を過ぎて、年齢にして80歳を超えてから、胤二はメレヨン島での戦争体験を題材とする絵を描き始めました。第3画集(自費出版)に収められた戦争画が人々の目にとまるようになり、北海道新聞社の取材と記事、NHK北海道の取材と放送が行われるようになりました。2020年にはNHKの全国ニュースで流されるという出来事もありました。

 

魂のある絵を描いた画家というのが胤二に一番ふさわしいと私は思います。あのゴッホは、画塾で学ぶ他の画学生や美術館に展示されている絵画を見て魂がない、と批評していたと伝記には書かれています。大東亜戦争のさなか、メレヨン島で餓死と戦ったことが自分の生涯の最大の体験であったと、胤二はことあるごとに語っています。餓死せざるを得なかった戦友への思いが魂に刻み込まれたのでしょう。

絵とは、優れた絵とは、技術はもちろん重要ですが、それ以上に、作者の魂がこもっているかどうかにかかっているとゴッホならずとも万人が思うところでしょう。柿本胤二の魂がこもった絵画をぜひご覧ください。

 なお、建設にあたり、多くの人の協力を得ました。画集出版社のアイワールド、WEB制作を手伝ってくれた北極星さん、胤二の孫娘たち。設立の中心となった純、秀二とともに、心から謝意を述べます。

館長プロフィール

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館長 田中啓一

昭和24年(1949年)生まれ。灘中・高を経て東大法学部卒業。

同大学大学院博士課程満期退学の後、山梨大学講師、助教授。

昭和63年4月、山梨大学を依願退職し、筑波大学医学専門学群入学。

平成6年4月医師国家試験合格。

 

東京・日赤医療センター、札幌医大を経て、

平成13年、宮崎神経科嵯峨病院院長、

平成15年より嵯峨嵐山・田中クリニック院長。 

 

平成5年、柿本弥生と結婚し、翌年長女出生。

中高生のとき、日本史・世界史を学び、美術にふれたのがきっかけで美術に興味を持った。自ら描くことはないが、美術展にまめに足を運ぶ一方、美術書、画家の伝記を好んで読んでいた。

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